松江開府の祖、堀尾吉晴公とその一行が松江城に入城する様子を再現した松江武者行列です。参加者の募集や行列のコース、関連イベント、当日の交通規制など武者行列に関連する情報を発信します。

松江城・堀尾吉晴公

堀尾家の略歴


(春龍玄済賛、春光院蔵)
堀尾家の先祖は、天武天皇を祖とする高階氏であり、応永年間 (1394 ~ 1427) から尾張国御供所村 (愛知県大口町堀尾跡) に居住したといわれている。戦国時代、堀尾吉晴の父泰晴の頃には、岩倉城主織田氏に仕える尾張の有力土豪として栄えており、1543 年 (天文 12) に吉晴は生まれたと伝えられている。吉晴は岩倉城主織田氏が織田信長によって滅ぼされたことから、のちに豊臣秀吉となる木下藤吉郎に仕え、秀吉の立身と共に一代で大名に出世した人物である。その人となりについて諸書の伝えるところによれば、通称を茂助といい、容貌は端正、性格は温厚であることから「仏の茂助」と呼ばれたと伝えられている。
しかし、ひとたび戦場に立てば勇敢に戦う武勇に優れた人物であり、「鬼の茂助」と呼ばれ、幾多の武功をあげている。
1585 年 (天正 13) には、近江国佐和山で 4 万石を与えられ、1590 年 (天正 18) には、近江国浜松 12 万石の大名となった。秀吉の死後は、三中老の一人として次第に激しく対立する徳川家康と石田三成の間にたって仲介の労を尽くし、その功績から大老達より越前府中城 (現福井県越前市) の留守居役として 5 万石の領地を与えられている。1600 年 (慶長 5) 関ヶ原の戦いには、直前に三河国池鯉鮒 (現愛知県知立市) で発生した水野忠重殺害事件で受けた負傷から出陣できず、戦いには子の忠氏が参陣して活躍した。
実際に軍勢を率いて活躍したこともあり、関ヶ原の戦いの後に出雲・隠岐両国 24 万石の領地を与えられたのは、子の忠氏であったと考えられている。忠氏は、父吉晴と共に入国して尼子・毛利の時代からの拠点であった富田城に入ったと伝えられる。しかし、忠氏は、新たな領国支配の中心としての新城の築城を計画するが、計画段階で死去してしまう。忠氏がまだ幼かったこともあり、その後は吉晴が後見として藩政を執り行った。
吉晴は、松江城の築城と城下町松江の建設を 1607 年 (慶長 12) から開始し、妻とともに事業の実現に尽力したと伝えられている。しかし、その吉晴も、1611 年 (慶長 16) 6 月に死去する。松江城と城下町の整備は、慶長 16 年の末には完成されていたと伝えられていることから、完成を目前に吉晴は死去したことになる。
堀尾忠晴は、父、祖父の遺志を継いで藩政を行ったが、1633 年 (寛永 10) に嗣子なく死去する。家名存続の運動も幕閣に対して行われたが、結果としてその運動も成果をあげることなく、堀尾家の家名は断絶してしまう。

今年の主役

1 月 22 日 (日) に行われた主役選考会において、一般公募の中からオーディションを行い、
◎堀尾吉晴公 - 佐々木圭 (ささき けい) さん
◎吉晴公奥方・大方様 - 佐々木智子 (ささき ともこ) さん
◎堀尾忠氏公 - 河原和垂 (ごうばら わたる) さん
◎忠氏公奥方・長松様 - 石田浩子 (いしだ ひろこ) さん
◎古屋姫 (こやひめ) - 伊藤可菜 (いとう かな) さん
◎小那姫 (こなひめ) - 森脇美優 (もりわき みゆう) さん
が主役に決まりました。

松江 武者行列